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  日本人とキリスト教倫理  

 「死」に関する教会的倫理(PDFファイル)
 日本における、民衆的伝承断片と「えんまだいおう」の審判について次ぎの写真を見てください.
  真中にある白いのが,この世で犯した罪を全て映し出す鏡
       そうしてかならず、「有罪判決」=地獄行きが,下されます.
  右に赤鬼が待っています
  その裁判に引き出されるのが真中に座っている、白い衣の「亡者」=死に旅立った死人

 私たちの殆どは,
  さんずの川原で子供たちが石をつまなければならない話
  えんま大王の裁きを,全てが映し出される鏡の前で受けなければならない話
  地獄の釜、針の山、血の池地獄
  鬼たちのちょうちゃく
  観音さまの話
      だから私達は,正しくあらねばならないことなどなど・・・
 

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 ここに,鎌倉時代から伝わる「鬼舞」という,宗教劇(仏教劇)の、最後のところを紹介し、「十字架の事実を知らずして」救いを見つめた人々,或いは比較宗教的立場からの倫理ということについて、考察を加えてみたいと想います(国の重要無形文化財).

  【死出のやまの物語(お終いの観音が登場するところ)】

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 ここで始めて櫓を便う。櫓の上に黒鬼が居る。傍に大石の作物がある。
 ・鬼婆ひとり舞台にいる。
 ・ひとりの亡者、赤鬼に追いたてられながらまろび出る。
 ・鬼婆、亡者を取って押え、上手舞台のそでから、椀と箸をのせた膳を持ってきて、亡者に無理やり箸を取らせようとする。
 ・亡者、食べょうとしたとたん、椀の中から火がとび出る。赤鬼、嘩びをあげる。
 ・鬼婆、庖丁をかざして亡者に迫る。
 ・鬼婆「よしよし、死出の山の呵責いたそうか」
 ・鬼婆、亡者をつかんで死出の山へ追いあげ、赤鬼もまたそれに加わる。
 ・鬼婆、下手櫓の蔭へ退場。
 ・亡者 梯子伝いに櫓に上ると、上から突然黒鬼が姿を現わす。
 ・亡者、驚いて梯子の中途で逆さに倒れる。
 ・亡者、ふたたび山にのぼると、黒鬼、作りものの大石を持ち上げ、亡者を押えつける。亡者、口から血を流す。
 ・黒鬼、亡者を下へ突き落す。
 ・落された亡者、ムたたび赤鬼と黒鬼に責められ、四つん這となる。
 ・観音菩薩、下手から登場。赤・黒の鬼と相対す。
 ・観音「鬼王、この罪人を許せ、離せ」
 ・黒鬼「そもそも、この罪人と言っぱ」
 ・赤鬼「婆婆国中の大悪人なワ」
 ・観音「その所以如何」
 ・黒鬼「堂塔彿閣に一度の参詣もなく」
 ・赤鬼「一統半銭の施しもなく」
 ・黒鬼「昼は世路(せいろ)の暇を惜しみ」
 ・赤鬼「夜は鴛鴦の衾を重ね」
 ・黒鬼「空しく、財色滋味をむさぼるばかりなり」
 ・両鬼「疾く去り給え」
 ・観音「鬼王の断るところ道理をり、然りといえども我等が大悲の万有は、入寒の氷に身を閉ぢ、入熱の焔に身を焦がし、無間を栖となし、衆生の苦患に代る故なワ。縦え柚槻伽鏡 苦刺鉄斧の苦患に倒れたりといえども、自ら代りてこれを受くべきなり、ただこの罪人を許せ、放せ
         この間亡者の顔は一度も見ることはない,イメージが更に豊みなる、
         観音は,無実だと言っているのではない,ただ,許せ、赦せ
         その罪に対しては,
 ・黒鬼「娑婆の番悪は、浄玻璃の鏡の面に
         抱腹を受けるに値するものなることを、繰り返し主張するのである.
 ・赤鬼「いささか争うことなし」
 ・黒鬼「それ、われらの姿といっぱ」
             「いっぱ」:いっしょ〈方言)
 ・赤鬼「慳貧の業、鬼となりて身をせむ
         我々とて、好き好んで鬼をやっているわけではない!
         世の中で犯した罪の結果なる事を,観音知っているのか?
 ・農鬼「みずから執着の瞋恚恵は鎖となって身を縛り」
 ・赤鬼「三毒は刀剣となって身を切り」
 ・黒鬼「五欲は火焔焔となりて身を焦がし」
 ・赤鬼「自業自得の理」
 ・黒患「何ぞ、此の悪入、逃るべけんや」
 ・雨鬼「疾く去り給え」
 ・観書「鬼王の重ねて断わるところ、歴然の道理なワ。然りといえども、我等が万行の功カ、太悲の恵、日の照らす時は、八寒の氷も解け、六道万行の涼風咲くときは、八熱の焔も消ゆるとやら、そのうえ一本の塔婆を立て、大乗涅槃の金文(きんもじ)を書き、鬼入応答なさしむペきなり、只この罪人を許せ、放せ
 ●この問答の間に、舞台正面に卒婆が出る。表に「爰入施餓鬼塔者為妙西信女佛果菩提俟」裏に「南無遍照金剛」としるしてある。
 ・観音、亡者を連れて下手へ退場。
 ・両鬼くやしがり、奇声を発して飛びまわり、やがて赤鬼下手へ退場する。
 ・ひとり残った黒鬼、卒塔婆を引き抜く。
黒鬼「亡き人の今は仏となりにけり、名ばかり残す苔の下露 扨は成仏いたせしか
         さてここに皆さんがコメンとを挿入するとしたら?
         (   )
         この青字の部分は、私によるものである.
 ・黒鬼、いい終って卒塔婆を前に投げつける。
         舞台装置は仮面のほかは殆ど無く,ヨーロッパの,豪華な舞台ともまた対称的である。亡者のせりふは一言もない.

         ・・・・・・・・・・・おしまいおしまい・・・・・・・・・
 

その他の伝承を、聞かされていると想います.引用個所を示せと言っても,そう簡単にここに書いてあるといえる親は少ないと言える.
 この「鬼来迎」の、文学的,完成度の高さには,いささか驚いたのであるが,以下に、若干のレポートを試みたい.

              【鬼たちと観音のあいだの亡者】




●大  序
地獄の間魔の庁の設定で、閻魔、倶生神、鬼婆、黒鬼、赤鬼が勢揃いして、亡者の生前の罪を判じ、鬼が亡者を責める。
●賽の河原
賽の河原で子供たちが石積みして遊んでいるところへ、地獄の鬼が現われ、これを捕えようとするが、地蔵菩潅が現われて、鬼に追われて逃げまどう子供たちを救う。
●釜入れ
地獄の釜ゆでの場。鬼と鬼婆が一人の亡者を責めさいなんで、釜ゆでにする。
●死出の山
鬼婆や鬼が、亡者を責めに責め、死出の山に追いやる。最後に観音菩薩が現われて鬼を説き伏せ、亡者を浄土に導く。
●和尚道行
虫生の里のとある辻堂、夜道に迷った郁戯和尚が、そこで偶然、地獄の鬼に責められている、妙西という娘の姿を見る。
●墓  参
妙西の父・椎名安芸守と妻の顔世が、家来の奴を従えて娘の墓参に来て石屋に合い、彼を屋敷に伴う。
●和尚物語
安芸守の屋敷で、石屋が辻堂で見た娘の苦患のさまを語ると、安芸守夫妻もまた辻堂で通夜を し、地獄の娘の姿を見、すわ我が娘よと嘆き悲しみ、やがて石屋の教訓に従って、地獄に落し入れたみずからの罪障の消滅と娘の成仏を願って、広西寺(広済寺)の建立を約束する。
 
 
 

 この劇が演じられるのは、七月十六日の午後、寺の本堂で卦静態の法養が営まれ、それが終ると始められる。
 見物人は、猛暑のなかを三々五々集まってきて、腰を下ろして開演を待つが、舞台に登場する鬼婆に、連れて釆た赤ん坊を抱いてもらうと、健康に育つという口碑も
あワ、鬼来迎は単なる農村の娯楽というより、生活信仰の対象でもあると言えよう。
 以前は、同し下総国内小見川町の浄福寺や、下総町の迎接寺でも類似のものが演じられていたと思われるが、現在もなお毎年演じられているのは、全国的に見て他に類例がなく、重要無形民俗文化財に指定されている。

    これは「保存会」作成の詳しいパンフレットからの概略であるが,私にかんする話だけれど,断片的伝承,仏の戒めとしては,全ての項目にわたって,耳にした事のあるものばかりである.しかしこの物語に出会って,その完成度の高さや,無矛盾性または普遍性に驚き、宗教史的にも,自らに訴える事の多いものであった。
 圧倒されるような,引き込まれるようなと言っても良いのだが、不自然なところの一つもない・・・・。これはいったいなんであろうか.考えつづけてきたつもりである.
 私達は,クリスマスに「降誕物語」や、キャンドルサービスにおいて、言わば「記念の追体験」を行うけれど,違う様にも見えるし、相当の共通性が見出される様にも想える。
 
  基督者が日本文化や宣教を考えるためにも,完成度が高い分だけ,参考になると想われる.

  上は,明治初期の,写本であるが,あたかもQ資料に出会った心地がしたのを覚えています.実際これ以上古いものはないのだそうです.三隅治雄(東京国立文化財研究所)によれば,狂言として寺の境内を舞台に,長く演じられてきたものだそうです.
 私の聞かされた話によれば,
  大所の部分が大きく――実際には北陸の風土に合わせて――異なることと、和尚物語の部分が欠落しており
  三途の川には恐ろしげなる、船頭がいて、三文の金を払わねばならないこと
  「針の山」と,「血の池地獄」の聡が,「ルカの大挿入」の様に、これに加えられているものである.
 私の母が亡くなったのは1995ねんであるが、棺おけには文銭が三枚入れられたのを覚えている,この船頭に払わなければならない、すなわち、準備(そなえを)しなければならないものとして,そのように,本人も私に教えていたし、父もそのようにした,今のお金では,通用しないそうである。昔からそのように言われてきたのである(<――真実)。ここの所が,時代的理解とい得ると想いますが、以下教会倫理の立場から、リポートを試みたいと想います.

  以下は「清め(潔め)」の式の光景である。  【まだ、ヒキツケを起こすような年じゃないかな!】



 「日本人とキリスト教倫理」のつづき

 ルーテル教会の歴史的流れ、福音宣教の継承と今日的意義ということについては別にレポートします.

 隠れたる神(ルター)

  そしてルターの項目随筆

  説教に見るWesleyの完全と教会へのメモ


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